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💴新紙幣発行カウントダウン💴

20年振りに新紙幣が発行されました

 

新たな紙幣は一万円札が「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一、五千円札は日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子、千円札は破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎の肖像がデザインされます。

 

渋沢栄一翁は埼玉県深谷市の生まれであり、前日7月2日21:00~翌1:00まで渋沢栄一記念館でカウントダウンイベントが行われ、全国各地19社の報道関係者が深谷に募り、タレントのビビる大木さんと共に大々的に執り行われました。

 

株式会社ロワールの四ツ井専務もふかや市商工会青年部の青年部長としてカウントダウンイベントに来賓として招待され、登壇いたしました

 

 

渋沢栄一とは

「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、天保11(1840)年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門からは学問の手ほどきも受けます。7歳頃からは、隣村に住む従兄の尾高惇忠のもとへ通い、「論語」など四書五経を学びました。

文久3(1863)年、幕府の階級制度や一連の外交施策に不満を募らせた栄一らは尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを企てます(計画は直前で断念)。幕府からの追手を避けるために故郷を出た栄一は、かねてから知遇を得ていた家臣の勧めにより一橋家に仕える機会に恵まれ、財政の改善などに手腕を発揮し、次第にその力を認められていきました。やがて、徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察の随行員に抜擢されて渡欧すると、先進的な技術や産業を見聞し、近代的な社会制度を知った事が、その後の栄一の人生に大きな影響を与えました。

欧州から帰国した栄一は、蟄居した慶喜のいる静岡で、商法会所をつくって地域振興に取り組んでいましたが、明治政府に招かれ、新しい国づくりに関わりました。その中の一つには、世界遺産となっている富岡製糸場の設立があります。明治6(1873)年に官僚を辞めた後は、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役(のちに頭取)となり、民間人として経済による近代的な国づくりを目指しました。栄一は、銀行を拠点に企業の創設・育成に力を入れて生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力しました。

儲けのみを求めるのではなく、世のため人のために働いて儲ける、つまり公共の利益を追求することで、皆が幸せになり、ひいては国が豊かになると考え、実践した栄一は、多くの人に惜しまれながら昭和6(1931)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

渋沢栄一デジタルミュージアム参照